Caribou at Unitを観に行ってきました。
ハゲの進行具合と比例するかの様に進化をとげたSWIMという名の踊る音楽。ダン先生のオデコと、他3人の見事な連携が光るバンドセットでライブバージョンに変化したカリブーの曲達はとても躍動しておりました。この上ないね。
昨年観たウルリッヒもそうですが、やはり頭を使えば使うほど、毛は抜けていくものなのでしょうか?
毛に気持ちが宿っているならば、あぁこいつの脳みそはやたら活発だから大丈夫、もう俺が守ってやる必要もないな、などと毛さんも思って毛根から抜け出して、無言のまま落っこちていった。なんて、ハゲた才ある人を見ると考えてしまうよね。
ほっとけ!とか言われそうじゃけどね。
全く別な話、私は些細な事を甘く観ていた自分を愚かだな、と思いました。
我が生涯において、自分の人生を180度変える様な出来事ってそうないじゃろう、わしの勘だとあって生涯2、3回。カリブーほどのライブを観てもすげぇー!とは思っても、人生を180度変えるものではない。
自分に変えなければいけない所、成長をみなければいけない所、もしそれが何かの出来事によって気づかされるのならば、どれだけ些細な出来事でも、それを無視し、無関心でいる事がどうして出来よう。そしてどんな些細な出来事でもそれを広げる事こそ我がすべき仕事であり、その広げ方にこそ、制作者の深い浅いがあり、評価はそこでされるべき、と思います。
うまく生きよう、スマートに立ち回ろう、確かに必要である。しかしそのポーズだけではどうしようもない。
どんな状況においてもインスピレーションソースというものは転がってるし、そこで不平不満を並べようもんならそれは言い訳でしかない。『ファッションはすたれる、だがスタイルは永遠だ』 私の中のキングオブ男前、サンローランの言葉はいつでも、どの場面でも当てはまる。スマートに生きようとする傍ら、本当に情熱があるのか、情熱を行動に移すその実行はできているのか。ないならそれはポーズですね。
同じ意味で音楽とは音ではない、人でありスタイルです。
音というのは常日頃どこかでなっているもの。それを人が作り上げて鳴らす訳だから人ですよ、音楽は。無音なんて精神と時の部屋ぐらいしか存在しない。ジョンケージなら精神と時の部屋にも空気のすれる音はある、とか言いそうですね。
ファッションはすたれる、だがスタイルは永遠、ならば、売上げ至上主義の音楽雑誌が、所謂『音楽雑誌』を名乗る事がもはや、すたれてるって事になるのでは?
一見表面的なものだけ、ファッションでいうなら服、飾りだけを撮っていると思われがちな写真家も、本物はちゃんといて、レンズを見て激写しているのはその奥のスタイルだ、というお話、感銘。なるほど、どの業界も根っこは一緒だなと。確かに写真家こそいつも何かを覗いてる。いつも覗くからこそ本質的な部分を見る目がその辺のミュージシャンのそれとは違うんじゃろう。
貧乏でも、王族貴族の様な気持ちを持ち続ける事。ビートたけしの行列に並ばない美学に似とるけど、それは多分ポーズでは出来ません。
人間弱いからってなもんで、折れたくなるし媚びたくなる。でも人間の精神が弱いと決めたのはやはり人間です。
死ぬ程高い精神で戦ってる人もやはり人間です。
じゃぁ自分が弱いと決めたそこのあなた、そう決めたのもやはりあなたです。
ぃよし、わしも今のうちに育毛を。。。これはポーズかスタイルか。正解は前者である。
コレをスタイルと言えるのはカツラと育毛に、自負がある人である。
何の話だ?
ノブの食中毒を、ウンコマーン!ビッチバーリアぁー!などと馬鹿にしとったら、あのビッチバリアのビッチとはアバズレのbitchなのか?という疑問を俺に抱かせ、なんだか最近俺もめっちゃ腹が痛い。
腹痛と戦う、松本とおるでした。